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芸術家の息遣いが聞こえる町、フィレンツェ 「命短し、恋せよ乙女!」と豪華王のエールが響く

 小野 正惠
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2015年2月現在、イタリアにある世界遺産の数は50。国別ではイタリアの世界遺産保有数は世界最多を誇る。そのうち4番目、1982年に世界遺産に登録されたのが、「フィレンツェの歴史地区」だ。15世紀に大輪の花を咲かせたルネサンス都市には、著名な芸術家たちの作品が、何の気負いもなく、そこにある。建物の廊下に、階段に、時には宮殿に、そして吹きさらしの扉に、さりげなくある。それらの作品を目の当たりにするにつけ、この町のすごさを感じずにはいられない。2回にわたり、フィレンツェの町を散策。前編は美術作品、後編は建築を中心に見て回ろう。

町に3体あるミケランジェロ作ダビデ像の意味

フィレンツェを訪れたら、真っ先に足を運びたい場所がある。写真や映像などできっと誰もが幾度となく見ただろう光景。赤茶色の屋根がひしめく町並みを見下ろす丘だ。一日中、観光客でにぎわうその丘は、ミケランジェロ広場と呼ばれる。夕暮れ時ともなれば、眼下のアルノ川、その彼方に沈む夕日を含めたすべてが絶景というにふさわしい。

ミケランジェロ広場から見たフィレンツェの町並み

その風景を見守っているのが、ミケランジェロ作ダビデ像のレプリカである。広場にすっくと立つその姿は、威風堂々。模刻とはいえ、ルネサンス期のフィレンツェを象徴する人間味あふれる力強い作品だ。

ミケランジェロ広場にあるダビデ像の青銅製のレプリカ。オリジナルはアカデミア美術館にある

そして、丘を下り、アルノ川にかかるヴェッキオ橋を渡り、ウフィツィ美術館を過ぎてヴェッキオ宮へと向かう。その宮殿前のシニョーリア広場にも、ミケランジェロの広場同様に、レプリカのダビデ像が静かにたたずんでいる。そう、15世紀末、この町で才能を見いだされ、歴史に名を刻むことになったミケランジェロは、フィレンツェ共和国出身。そして、彼の作品の1つ「ダビデ像」は、この町の象徴なのだ。そもそもダビデ像が創られたのは、1504年。一度は枢機卿に呼ばれ、ローマに赴いたミケランジェロが、再びフィレンツェに戻った際に依頼されたものだ。

制作当初、ダビデ像はヴェッキオ宮の入り口近くのシニョーリア広場で公開された

ただ、ダビデ像には、複雑な背景がある。ミケランジェロを見いだし、制作の場を与えたのは、メディチ家の当主"ロレンツォ豪華王"(ロレンツォ・イル・マニーフィコ)だった。遡ること約1世紀前の14世紀後半、ロレンツォの祖父で「祖国の父」と言われた"コジモ・イル・ヴェッキオ"(コジモ・デ・メディチ)の代から始まった、メディチ家による芸術家たちの保護は、ロレンツォの時代でピークに達する。メディチ家によるパトロネージュが、フィレンツェのルネサンス芸術を開花させたといって過言ではない。しかし、ロレンツォの時代は絶頂にあったものの、メディチ家支配は決して盤石とは言えず、フィレンツェは、メディチ家支配と、市民による自由な共和制という、2つの統治の間を行き来する時代に入ってもいた。

1504年、ミケランジェロのダビデ像が完成した時、皮肉にも町は共和制を樹立。この像は、新共和国の象徴として迎え入れられたのだった。像の完成を祝う時、ミケランジェロの恩人だったメディチ家の人々は追放の憂き目に遭っている。ミケランジェロの心境はさぞ複雑だったに違いない。

真のダビデ像を見るためには、アカデミア美術館に行かなければならない。そこに足を運び、迎えてくれる像は、純白のドーム屋根の下でとてつもない威容を放っている。高さ410cm、たくましい足さえ、人の歩幅ほどもある。そして血管の1本1本に見られる緊張感、美しい筋肉の流れ、鋭い眼光。イスラエルの民のために戦った英雄ダビデを、少年としてではなく、力強い青年として描いたミケランジェロの像の周囲は、常に模写をする画家の卵たちであふれている。今なお、この像が、芸術家たちにとって羨望の存在であることがうかがい知れる。

高さ5mもある巨大な大理石の塊から、ミケランジェロはこのダビデ像を彫り出していった

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