バックナンバー

バチカンの至宝、ミケランジェロの嘆き サン・ピエトロ大聖堂、そしてシスティーナ礼拝堂を巡る

 小野 正惠
  • このエントリーをはてなブックマークに追加 はてな
今回訪ねる世界遺産は、面積わずか0.44平方kmしかない世界最小の国、バチカン市国。東京ディズニーシーとほぼ同じ広さの国が、まるごと世界遺産に登録されている。現在、1007カ所ある世界遺産の中でも、国そのものが登録されているのは、バチカン市国のみ。1世紀のある出来事に端を発し、聖堂として姿を現したのが4世紀。そして、ルネサンス期からバロック期にかけて壮大な建造物として再生したサン・ピエトロ大聖堂。かつて教皇の宮殿だった建物はバチカン美術館となり、かつて教皇の私的礼拝堂だったシスティーナ礼拝堂は、美の殿堂としてよみがえった。それらに残るのは、パトロンでもあった教皇たちの欲望に促され、しのぎを削った芸術家たちの作品であり、教皇の気まぐれに翻弄された芸術家たちの嘆きと意地の結晶でもあった。

システィーナ礼拝堂で体感するミケランジェロの泣きごと

日本人の感覚から見ると、世界遺産の建物はどれも巨大だが、とりわけ、サン・ピエトロ大聖堂の大きさには圧倒される。前に立てば、山のように立ちはだかる高さに飲み込まれそうになり、両側を見れば、楕円を描く柱廊に吸い込まれるような感覚に陥る。そして、中に入れば、自分が米粒のように感じてしまうのである。

サン・ピエトロ広場から見たサン・ピエトロ大聖堂とオベリスク

284本の円柱がサン・ピエトロ広場を囲む。広場は10万人を収容できる

大聖堂のクーポラ(丸屋根)の高さは132.5m、大聖堂の奥行きは216m。収容人員は東京ドームをしのぐ約6万人。大聖堂の脇に続く、バチカン美術館の廊下の長さは延べ7km。内包する美術館数24。

バチカン美術館内にある地図のギャラリー。黄金の廊下とも呼ばれ、16世紀半ば、グレゴリウス13世の命で建築家オッタヴィアーノが建造した

いったい、なぜこれほど巨大な建物が必要だったのだろう。誰がこの巨大建造物を望んだのだろう。たとえこのカトリックの総本山がゆくゆく世界10億人の信徒を持つ運命にあったとしても。

その答えを握っていたのは、16世紀の教皇ユリウス2世だった。

さらに時計を逆戻ししてみる。西暦64年、暴君ネロに迫害され、十二使徒の筆頭聖ペテロが逆さ十字の刑に処せられた。324年、古代ローマ帝国でキリスト教を公認した最初の皇帝コンスタンティヌス帝は、ペテロが殉教したこの地に、最初の聖堂を建立する。

時はたって1506年。バチカンの歴史を大きく塗り替える教皇ユリウス2世が現れた。そして彼は、突然言い放った。「ミケランジェロを呼べ」。後世に自分の名を残したい一心で、自身の廟墓の設計をミケランジェロに命じたのである。

「ダヴィデ」像で一躍時の人となっていた彫刻家ミケランジェロは、胸を躍らせ、何枚もの素描を書き、それに見合う大理石を探し歩き、1年近くも山に籠もって自ら大理石を切り出した。そして、いざ制作に取りかかろうとしたとき、青天のへきれきが......。教皇の気が変わったのだ。生きているのに縁起が悪いからと廟墓は取りやめ。その代り、自身の礼拝堂であるシスティーナ礼拝堂をもっと見栄え良くするために、天井画を描いてほしいというのである。

彫刻家ミケランジェロにとって、それは苦痛の命令だった。自分は彫刻家であって画家ではない。そう拒否するも、教皇の意に反することはできない。ミケランジェロの苦痛の日々が始まった。

何度、故郷の父親に泣きの手紙をしたためたことだろう。「首が痛い。腕もしびれる。うなじは肩に食い込む。腰は腹にめり込む」。体がつらいだけではない。天を仰いで絵筆を握り続けるその顔には、とめどなく絵の具がこぼれ落ちてくる。「自分の顔は床模様のようだ」。さらに言う。「つらいのは、専門でもない画家としての仕事をさせられているからだ」と。

「創世記」の「天地創造」から「ノアの物語」までの9シーンをはじめ、旧約聖書に登場する人物が描かれている。1000平方mに描かれた人物はおよそ300人

一説では、教皇の心変わりの原因は、ミケランジェロのライバル、建築家ブラマンテの陰謀ともいわれている。そもそも絵画が苦手なミケランジェロに天井画など描けるわけがない。そうにらみ、ミケランジェロの名声をつぶそうとしたブラマンテの口添えが、教皇の心を動かしたというのだ。しかし、ミケランジェロの職人魂が、疲労を、苦痛を、陰謀への恨みをもはねのけた。4年後、おびただしい数の人体像が描かれた天井画が完成する。ミケランジェロ37歳のことだった。

システィーナ礼拝堂の中央に立って天井を見上げてみる。数分間、見上げているだけで、確かにうなじが肩に食い込んでくるのが分かる。首が痛い。この姿勢を4年間、毎日、何時間も保ち続けたとは。ミケランジェロの執念と熱意と意地に感服させられる。

> 神業的彫刻に刻まれた作家の無邪気
1  2  3  4

JAGZY OWNERS

↑このページのトップへ